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ハドリアヌス4世(, 1100年頃 - 1159年9月1日〔)は、第169代のローマ教皇(在位:1154年 - 1159年)。教皇となった唯一のイングランド出身者である〔Mackie,John Duncan(1907)p.2〕〔George F. Tull(2009) 〕。本名はニコラス・ブレイクスピア(Nicholas Breakspear または Breakspeare)。イングランド東部のアボッツ・ラングレー(現在のハートフォードシャー)教区内のブレイクスピア農場に生まれ〔Clark, Clive W.(1997)"Prologue"p.1〕〔St Albans Cathedral 〕〔Hertfordshire Genealogy 〕〔ブレイクスピア農場は1960年代に住宅地開発のため取り壊された。場所は現在の一地域である。〕、セント・オールバンズの修道院学校(セント・オールバンズ校)で学んだ。 == 生涯 == === 生い立ち、教皇就任まで === 父のロバートは、ニコラスの生後、イングランド東部のセント・オールバンズの修道士となったが〔Mackie,John Duncan(1907)p.13〕、ニコラス自身は修道院への入院を許されることはなかった。修道院長によって「学校での習得状況からふさわしいと思われる段階に達するまで入院を保留」(修道院伝)されたためである。ニコラスはフランスのパリへ渡り、その後南仏アルルに近いサン・ルフ修道院の律修司祭となった。続いて修道院次長となり、まもなく満場一致で修道院長に選ばれた〔。この時期は、通常1137年とみなされているが〔、同修道院の記録は1145年頃の可能性も示唆している〔ニコラスが修道院長として最初に記録に現れるのが1147年1月29日である一方、前任者のフュルシエが最後に修道院長として言及されているのが1143年となっているためである。B.Bolton & A.Duggan(2003) p.25〕。 サン・ルフの修道院長となったニコラスは強固な改革姿勢を示し、これに対する苦情もまたローマへ伝えられたが、それはかえって当時の教皇エウゲニウス3世(在位:1145年 - 1153年)の注目を引き、教皇により好意的に評価されたニコラスは1149年12月にイタリア中部のアルバーノの司教枢機卿に任命されることとなった〔B.Bolton & A.Duggan(2003) p.26, 42 and 75〕。 さらにニコラスは、1152年から1154年にスカンジナビアへ教皇特使として赴任し、新しく設置されたニーダロス(Nidaros、現在のノルウェーのトロンハイム)の大司教区を任されてハーマル管区(ノルウェー南東部)を設定した。1153年にオスロ大聖堂学校(Schola Osloensis)を設立したのもニコラスであると伝えられている。また、ガムラ・ウプサラ(スウェーデン中部)の管区としての承認にも寄与している(スウェーデンの首都大司教管区は1164年に ウプサラ へ変更となった)〔ニコラス僧正(のちのハドリアヌス4世)ともにスウェーデンに渡り、ウプサラの司教を務めていたのが、イングランド出身のヘンリクである。ヘンリクは、フィンランドへのキリスト教布教の使命を帯びて、スウェーデン王のエリク9世(聖王)とともに1155年にフィンランド南西部に遠征し、その後も同地にとどまって布教活動をおこなったが、翌年、農民により暗殺された。ヘンリクは、のちにフィンランド最初の聖人「聖ヘンリク」として崇められることとなった。萩谷(2004)〕。この決定によって領地が削減されたデンマークのルンド大司教(ルンドは現在はスウェーデン南部に所在)に対しては、代償として教皇特使と永年教皇代理の地位を与え、肩書きをデンマークおよびスウェーデンの首座主教に引き上げることとした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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